令和5年度教区団参

法然上人開宗850年記念 総本山知恩院おてつぎ信行奉仕団と京都の旅

総本山知恩院

承安 5(1175)年浄土宗の開祖法然上人が吉水の地に草庵を結ばれたことを起源とし、法然上人がお念仏の教えを広め、入寂された遺跡に建つ浄土宗の総本山です。

正式名称は「華頂山知恩教院大谷寺」と言います。江戸時代、浄土宗を仰した徳川家康公が、知恩院を京都における菩提所と定めたことから領が拡大され、現在の大伽藍が築かれました。

総本山知恩院おてつぎ信行奉仕団

『お念仏の根本道場』総本山知恩院にお参りし、元祖法然上人の祖廟に礼拝し、奉仕します。この信行奉仕の体験により、自分自身の生活や態度を見つめ直して信仰心を高めることを目指します。

 

広隆寺

 京都市右京区太秦蜂岡町にある真言宗系単立の寺院。山号は蜂岡山で、本尊は聖徳太子。渡来人系の氏族である秦氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。推古天皇11年(603年)に聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に問うたところ、秦河勝がこの仏像を譲り受けて「蜂岡寺」を建てたという。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子信仰の寺でもある。

西光寺

京都の洛西にある西光寺は、浄土宗の開祖法然上人のご遺骸を約8ヶ月間お隠してお護りした寺院。嘉禄3年(1227年)に、法然上人のお念仏の教えに反対した勢力が、大谷(現知恩院)の法然上人のお墓を破壊して、そのご遺骸を鴨川に流すという計画をしました。その企てを知ったお弟子達が、奥嵯峨の二尊院にご遺骸を移して、お隠ししましたが、すぐ知れわたりましたので、密かに西光寺に移しました。そして、西光寺の開祖来迎房園空上人が、翌年の1月 25日まで、ご遺骸をお護りしました。その後ご遺骸は、京都の西山の生野(後に光明寺)で、茶毘(火葬)に伏されました。山門は、嘉禄の法難当時が偲ばれるように茅葺造りです。中央に、尋声という額があります。尋とは「たずねる」という意味があり、お念仏の声が偲ばれる寺院ということから命名しています。

太秦映画村

太秦映画村が生まれたのは1975年。元々は東映が運営していた映画スタジオが置かれており、時代劇の大規模なオープンセットなどが組まれていました。しかし時代劇ドラマの人気が下火になるにつれて、撮影などで使われる機会が減少。そのため施設の一部を一般人に開放、設置しているセットを実際に見学できるようにしたのがこの映画村です現在では、実際の撮影で使われる衣装を着たり、小道具などを触ったりして時代劇の雰囲気を味わえる他、太秦映画村内のアトラクションやショーには実際の俳優たちが登場することもあります!さらに太秦映画村内で実際に撮影が行われている時には、その現場を間近で見学したりもできます。

平等院鳳凰堂

平安時代後期、天喜元年(1053)に、時の関白藤原頼通によって建立された阿弥陀堂です。最も大きな特徴は池の中島に建てられていることで、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、その美しい姿を水面に移しています。鳳凰堂を正面から見た姿が、翼を広げた鳥のように見える事と、屋根上に1対の鳳凰が据えられていることから、江戸時代初め頃より「鳳凰堂」と呼ばれるようになりました。鳳凰堂は東方に面して建てられ、阿字池を隔てて西方に極楽浄土がある古都を示しています。

三十三間堂法然塔

 三十三間堂法然塔には6字の名号(みょうごう)「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」が刻まれ、名号石とも言われています。「南無阿弥陀仏」は鎌倉時代前期の 1204年(元久元年)に第83代・土御門天皇が後白河法皇(第77代・後白河天皇)の13回忌法要を行った際、浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖・法然上人(ほうねんしょうにん)が念仏三昧行である六時礼讃(ろくじらいさん)を修し、人々に書写して分け与えたと言われています。三十三間堂法然塔は「法然上人行状絵図(ほうねんしょうにんぎょうじょうえず)(国宝)」に記される法然上人の霊場の一つです。